津々烏鷺うろ

主に囲碁に関する雑記を書いています。ときどき棋譜の解説や感想等もあるかもしれません。

子どもと大人(2)

 2016年3月9日。世紀の一戦となるAlphaGoー李世ドル九段の対局が始まった。

 

 序盤にAlphaGoが白10(図)を打った瞬間、観戦していた多くの棋士たちは李九段の勝利を確信したことだろう(実際私もそう考えていた)。それもそのはず、従来では悪手といわれていた手をAlphaGoは選択したからだ。「AlphaGoは定石すら知らないのか」と嘲笑する解説もいた。

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 しかし局面が進むにつれて、AlphaGoは力を発揮しだした。上辺で勃発した戦いで主導権を握った白は、左上に巨大な地を作った。左下の折衝では鮮やかな転身で先手を奪い、狙い澄ましたかのように右辺に打ち込み、李九段を苦しめた。

 結果、李九段は右下で失着を打ってしまい、そのまま為す術なく敗れてしまった。

 

 第2局以降もAlphaGoは、人間にはない発想の手を次々と繰り出した。その多くは、一見すると悪手のようにも見えるが、実際には咎めるのが難しく有力なものであった。

 李九段は第4局に一矢報いるのが精いっぱいだった。

 

 この5番勝負を境に、囲碁AIは急速な進化を遂げた。

 日本のZen改めDeepZenGoはトッププロに肉薄するところまで来ているし、中国の騰訊(Tencent)開発のAI「絶芸」は多くのトッププロが勝ち越しを許している。

 AlphaGoも更に進化を続け、李九段に1局敗れて以来、人間にはまだ一度たりとも負けていない。

 

 AI囲碁の特徴は、その序盤感覚にある。

 コンピュータ囲碁は部分的な計算が非常に正確だと思われがちだが、実はそうでもない。実際、中盤以降には凡ミスもあるし、ヨセでは級位者でも打たないような手を打つことさえある。

 しかし、何故そのようなミスが起こるかというと、その大半は、多少損したところでも形勢がひっくり返らないほど序中盤でリードしてしまうからだ。これは、目数の差ではなく勝率の高い手を選ぶコンピュータ囲碁ならではの現象である。

 

 AIの中終盤はまだまだ謎に包まれているが、序盤の打ち回しは見事としか言いようがない。私もAI発の布石・定石をいくつか試したが、なかなか有力で奥が深いものも多かった。

 次回はAIの序盤の手法について、具体的な例や特徴を挙げたいと思う。

 

(続く)

子どもと大人(1)

 「盤上では子どもで在れ、盤外では大人で在れ」

 これは私が囲碁を打つ上で気を付けている心構えである。

 

 囲碁とは、いくつかのルールさえ守っていれば、基本的にはどこに打ってもいいゲームである。相手の石を殺しにいったり、敵陣に土足で踏み込んだり、どんなに無礼な手を打っても許される世界なのだ。

 では、なぜそういった行為が許されるのだろうか。それは、囲碁が「道」だからである。囲碁・将棋の道である「棋道」は「柔道」「剣道」といった武道と同様に、礼に始まり礼に終わる。試合中の無礼行為をお互いに許し合うために、試合前後の礼が必要となる。

 「盤外では大人で在れ」は、この礼のことを表している。対戦相手を心遣い、気持ちよく対局に臨んでもらうために最大限の注意を払うように努めている。とはいえ、不意にボヤいてしまったり石音を立ててしまうこともあるので、まだまだ努力が必要なのだが。

 

 一方「盤上では子どもで在れ」は、盤上では感情を露わにしたり自由で柔軟な発想で着手を決めるということだ。

 相手のキカシに耐えられず無性に反発したくなったり、取りに行かなくても勝てそうなのに怒り狂ったように殺しにいったりという瞬間は、対局中に度々あるかと思う。先述の通り、どこに打っても許される世界なのだから、こういった瞬発的な感情を大事にしていきたいと思っている。一見冷静さを欠いているようにも見えるが、子どものように喜怒哀楽を表現するほうが人間味があって私は好きだ。

 常識・知識やステレオタイプに囚われないというのも子どもの魅力だと思う。真っ白のキャンバスに好きな色で好きな絵を描くように、碁盤の上で自由な手を打って自分を表現できれば楽しいだろうし、それで勝てれば尚更である。

 

 最近私は新しい手をどんどん試しているのだが、それはやはり「AlphaGo」を始めとした人工知能(AI)の影響が大きい。私は自由な碁を目指して打っているのだが、AIの打つ碁とは一体どのようなものなのだろうか。私なりに分析していきたいと思う。

 

(続く)